「私の子育て」Kくん

ひまわり組 Kの母です。

お聞き苦しいところもあるかと思いますが、よろしくお願いいたします。

息子のKは2012年2月12日、我が家の第三子として生まれました。その当時長女は5才、次女は2才でした。妊娠中、少し手足が短いということで詳しくエコーをとったことがありましたが、医師からは、‘背が小さめかな~。’くらいで他にひっかかることもなく過ごしていました。でもよくよく考えると胎動は上の子たちに比べると弱かったかなと思います。

そして誕生したKをみるとなんだか違和感がありました。「とても首が太いなあー」と。立ち会っていた主人は「首が立派な男の子だな。」なんて喜んでいました。その時は、「男の子はこんなものなのか。」と、特にそれ以上気にせず無事に生まれて安心していました。

部屋にきたKは、ひたすら寝ているだけでほとんど起きませんでした。寝ているKを起こして母乳をのませていましたが、上手く吸えずにまたすぐに寝てしまい。とにかく泣かないしひたすら寝ている子でした。それでも新生児は夜と昼が逆だから昼間はこんなものかと思い過ごしていました。たぶん三日目だったと思いますが、看護師さんから「心雑音があるので先生からお話があります。」と、連絡がありました。ナースステーションに行くと小児科の先生がいて「少し心雑音があるので心臓の病気かも知れない。」と、言われました。その場で退院後の大学病院での検査日を提示され、急なことなので何がなんだか理解できずに話をぼんやり聞いていたような気がします。

Kは相変わらず昼間はおとなしく寝ているだけ、夜も同室で過ごすようになってもやっぱりひたすら寝ていました。

退院直前になり、長女がインフルエンザになったと連絡があり看護師さんに話すと、「長女に接した人はみんな自宅から出て行ってもらって家を消毒してからじゃ無いと新生児は家に入れないで。」と、言われました。私も予防のためにタミフルを飲み、周りの家族も全員タミフルで予防。そんないろいろな対応でバタバタした中、Kの耳の管が細すぎて新生児の聴力検査が上手くできなかったり、黄疸があるので光線療法をしなければならないといったことがありました。なんとか聴力検査はでき、黄疸もよく聞く話なので大丈夫かなと思い、私だけ先に退院し誰もいない家に帰りました。

翌日、Kを迎えに行くと黄疸もよくなったので退院して大丈夫とのことでしたが、「体重があまり増えないのでまた明日来てください。」と言われました。

家に帰り夜、Kをお風呂に入れようと裸にして、改めてなんだか‘バランスの悪い赤ちゃんだなー。’と、思いました。やっぱり首の太さが目立ち体は細く、片目もまだこのときなかなか開かない状態で、たまに開く目も我が家の新生児には今までにない二重の目でした。新生児の掌握反応もなく手のひらも洗いやすかったです。なんだかおかしいと思い、ネットで『新生児 心雑音』と検索してみました。ぱっと出た検索結果、そこには『ダウン症候群』という言葉が沢山でていました。ダウン症の特徴、太い首、耳の位置がやや下の方、なで肩、つり上がった二重、鼻が低くのっぺりとした顔、合併症に心臓病、など。心臓がドキドキして不安がこみ上げいろいろなホームページを見ました。改めてKを抱っこして眺めると、この特徴に当てはまる所ばかりでした。不安で不安で主人に電話して「ダウン症の特徴にあてはまる」と、話をしましたが「そんなことない。かわいい赤ちゃんだよ。」と言われました。その日の夜はぽつんとどこかに取り残されたように人生で一番不安で怖かった夜だったと今でも思います。

翌日体重を量りに出産した病院に行きました。体重はかろうじて増えていたので大丈夫でした。でも私の中にダウン症でははいかという不安はあり、帰り際に看護師さんに「この子ダウン症ですか?」と聞きました。その瞬間なぜだか涙があふれて止まらなくなりました。ネットで調べたらダウン症の特徴に当てはまる事を、看護師さんに話しながらずっと泣いていたと思います。看護師さんは「それは先生じゃないとわからない。」と。その他の会話は特に覚えていませんが、「ダウン症じゃ嫌なの?」と聞かれ、私は「わからない。」と答えたことは記憶しています。でもきっとそのとき本当は‘わからない。’ではなく‘嫌だ。’と、心の中では思っていたと思います。

それから一週間後、検査のため大学病院に行き、レントゲンをまず撮り診察室へ。先生から、「心臓はまず心配無いと思います。ただきっとダウン症だと思います。レントゲンを撮った体つきはベル型と言ってダウン症の子の特徴です。」と、言われました。不安は的中でした。その場で周りのことなんにて気にせず、ただただ声を出して泣き、診察が終わってもしばらく落ち着くまで病院にいました。家に帰って留守番をしに来ていてくれた私の母に「ダウン症かも知れない。」と、話しました。母は「それも個性だよ。」と、言ってくれました。

その日から私は、子供たちの目もはばからず急に涙があふれてきたり布団の中で泣いていたりと、泣いていた記憶がほとんどです。長女は「お母さんが泣いている。」と言って心配してくれていましたが、子供たちの前で顔を上げらず、笑えませんでした。主人はいろいろダウン症について調べていたようでプリントしたものを「読む気がしたら読んでみて。」と。でもとうてい私は受け入れることもできず、ダウン症と聞くのも見るのもその頃は嫌でした。ダウン症について何も知らない私は知的障害のことしか浮かばず、なんでうちの子なのか?と悲観してばかりいました。本当に失礼でお恥ずかしい限りですが、その頃は知的障害=何もわからない変な人と思っていました。

それでも時間は過ぎてゆき、日々の生活はあり、淡々と家事をこなすものの心から笑えることはありませんでした。Kは母乳をうまく飲めなかったので完全にミルクに切り替え時間を決めての授乳。母乳が出るのに飲んでもらえない寂しさもありました。母がしばらくはいてくれたので幼稚園のお迎えをしてもらっていたのですが、なかなか幼稚園のママ友にも言えず新学期が始まったらどうしようかともんもんとした気持ちもありました。

しばらくして病院でも染色体検査の結果、21トリソミーダウン症候群と診断されました。決定的な診断がでるとなんだか少しすっきりとしていました。心臓の方は穴が二カ所開いており肺動脈も狭窄しているので経過観察。幸いにも普段の生活はとくに支障はなく一ヶ月もするとKのミルクを飲む量も増えてきて体重も順調に増えてきていました。それでも寝ていることが多くKの泣き声を聞いた記憶はほとんど無いように思います。

桜の咲く頃、幼稚園の友達からお花見の誘いがありました。そのときにKのことをみんなに話しました。私のもやもやが少し晴れてきました。この長女次女の幼稚園時代に出会ったお友達には本当にいろいろと助けてもらい今でもKのことを温かく見守ってくれています。

それから4月になり、母も自宅に帰り忙しい毎日がはじまりました。長女の幼稚園お迎えぎりぎりの時間にミルクをあげ、Kを抱っこして次女をベビーカーに乗せ幼稚園へ。それから公園で遊んだりして、帰宅はだいたい五時近くの日々でした。どうやって三人の子供たちをお風呂に入れていたのか?ご飯はどうしていたんだろう?記憶にほとんどありません。今でこそ私も認めるイクメンの主人ですが、一番大変な当時は「俺も協力する。」と言うものの、特に早く帰ってくることもなく、ワンオペでイライラして上の子に当たっていたこともあります。私はまだこの頃になっても同じマンションに住んでいる‘ちょっと顔見知り程度の人’には、あまりKを見せたくありませんでした。赤ちゃんが男の子と話すと上二人が女の子なので、「よかったわねー」とだいたいおっしゃてくださいます。でもその言葉に私は、「男の子は男の子だけどダウン症なんだよな、、」と心の中では思っていて、愛想笑いするのが精一杯。エレベーターがくると‘誰も乗っていませんように’と願って下を向き目が合わないように過ごしていました。まだまだKのダウン症という障害を受け入れ切れてはいなかったと思います。心もまだどんより気分な私は一日中動き回り疲れて夜寝る。ただそれだけの繰り返しの日々でした。

その間病院で「療育はどうしますか?」と、聞かれていましたが次女が幼稚園に上がるまではとうてい無理だと思い、考えてはいませんでした。代わりに姉たちがよく行っていた深川北みずべで、中央区のダウン症協会の支部、てんとうむし主催の赤ちゃん体操を教えてもらい、生後四ヶ月の頃から月に一度参加をするようになりました。はじめてKを赤ちゃん体操に連れていったとき可愛い可愛いと言ってもらえてとてもうれしかったのと、お母さんたちがとても普通に明かるい方達で、その普通さに少々驚きもありました。そのとき赤ちゃん体操の担当をしてくださっていたのは親子教室の先輩方でした。

なのでKが親子教室に通えるようになったとき、私たち親子を知っていてくださる方がいるのは安心でした。

Kが1歳二ヶ月。りんご組に入ったころはまだまだお座りもぐにゃりと前に倒れそうなくらいだったと思います。二歳ちょと前に斜視の手術をうけてめがねを使用するようにもなりました。

ぶどう組のころは、食事をあまり噛まずに飲み込むので、東部療育センターの摂食指導を受けてアドバイスをいただいていましたが、詰まりそうになり背中をたたいてはかせる、という冷や冷やすることが結構ありました。今でも口の中いっぱいに入れてしまうので食事内容によっては目が離せません。三歳近くなると靴を履いて歩けるようになってきましたが足首が内側に入ってしまうので足底板を使用。また、発語が無いということで耳の検査をしましたが異常はなく、東部療育センターで「自閉症の傾向があるかもしれません。」と、言われたのもこの時期です。私もKの様子を見ていると‘あれ?’と思うことがあったので、「やっぱりな。」という思いでした。

そして第一のさくら組。この頃は気に入らないとものを投げたり、順番が待てなかったり、人を押しのけたり、椅子に座っていられない、目についた物にすぐに手を出す、という困った行為が顕著に表れはじめました。本当にKをつれて一歩外に出ると謝らない日はないといった感じでした。

でもそんなKの物を投げたりする困った行為を、教室の先生はノートに「物を投げて表現していました。」と書いていました。言葉のないKにとって嫌なことを表現する力がまだこれしかないんだと気づかされたのと、そんなKを理解してくださって温かく見守り、保育してくださる先生方に感謝の気持ちしかありませんでした。

さくら組二年目には週1日だけ姉たちが通っていた幼稚園に通うことにしました。何も一人ではできないし、発語もありませんでしたので悩みました。でも、Kは一人では生きていかれないしKの存在を沢山の人に知ってもらうのが一番地域で暮らしやすいかなと思い、入園をきめました。Kは沢山の人のざわざわしたところが苦手なので最初は教室には入らず廊下の本コーナーにいたりしていたようですが、週に1回でも少しづつ慣れて今では朝の会、帰りの会で椅子に座り皆と同じように本を見て待っています。流れがはっきりした集団行動は何となく見ようみまねで参加できるようになりました。

年長児、ひまわり組です。今のKは相変わらず発語はなく言葉の理解があまりありません。重度知的障害と診断がおりています。昨年の発達検査では社会性に問題有りとはっきりと書かれています。こまった行為もなかなか減りません。まだ口での感覚が優先で気になるのもは口に入れたりなめたりしています。遊びも物の出し入れが主です。こんなKは経験と目視での理解が主になってきます。何をするにも繰り返し繰り返し教えるしかすべはありません。

それでもKは少しづつ少しづつ、本当に少しづつですが確実に成長はしています。お手伝いが大好きで教室でもお当番は張り切って参加しています。家でも洗濯物を干したがりハンガーを持って出番を待っていたりします。掃除や布団敷きなど私がしていることには興味をもってやりたがります。正直時間ロスですがそこはじっくり付き合っています。そんな日々の生活のくり返し、教室での様々な体験や遊びの中でKなりの五歳に成長しています。

ここで姉達のことを少々。我が家の生活は普通の家庭よりも遙かに我慢することが多いです。毎日必ず一度は言う言葉は「Kにやられるから片付けて。」「Kが届かないところにしまいなさい。」です。姉達からすると、とても理不尽な時が沢山あります。家族で出かけるのも一苦労です。場所によっては、「Kがいたら無理でしょ。」と言うと二人とも何も言いません。私が謝ったりしているのを主人よりも二人の娘達のほうが遙かに知っていますし、一緒に居るとききっと恥ずかしい思いをしていることもあると思います。

Kのことで疲れているわたしをみて「なんでこんな子生んじゃったのよ」と、長女に言われたことがあります。「何でだろうねー。」としか言えませんでした。次女は幼稚園でお友達に「何でKちゃんしゃべらないの?」と聞かれたとき、少し笑いながら「しゃべるわけ無いじゃん」と答えていました。次女にだってわからないし、本当はいつも一緒にいるKとおしゃべりして遊びたいんだろうなと、親として切ない思いで見いていたこともあります。次女に関しては、Kの病院に付き合わせることが本当に多く一緒に居る時間も長いのでがまんが人一倍多いと思います。

現在五年生の長女はKを見ていると謎な行動が多すぎておもしろい、とかわいがってくれます。学校でも弟は障害があるとお友達や先生に話しているようです。次女は二年生。つばくさいとか、五歳なのになんにもできないなんていやがります。まだまだ私に甘えたいようで「誕生日にほしい物ある?」と聞いたら、「物とかじゃない、お母さんともっと遊びたい。」と、言われてしまいました。Kに手がかかる分なるべく娘達だけと過ごせるようにと心がけてはいますが、実際にはなかなかむずかしいです。成長とともに娘達の気持ちもいろいろと変化すると思いますが無理強いはせず、そっとよりそっていけたらと思います。

何の不自由も心配もなく生活していた我が家に、Kが誕生してから生活は一変しました。‘オランダへようこそ’という著書では‘イタリアへ行くつもりがオランダだった’ですが、我が家はオランダどころかアマゾンの密林の中に到着したように、がまん、がまんの生活です。Kはとても衝動性があり急に手を出したり人を押したりすることが多々ありますので、外出時は一時も目が離せません。家の中でもKに危険がないか、悪さをしていないか常にアンテナを立て、気を張っていなければなりません。本当に心から安らぐ生活はこの先もきっと無いような気がしますが、それでも毎日笑顔のある生活が送れています。

私が思っていた知的障害。それは大きな大きな間違いでした。Kは嬉しいと笑顔になります。楽しいと笑います。痛いと泣きます。思い通りにならないと怒ります。いろいろな感情があり沢山感じながら生きています。何もわからないなんてことはありませんでした。

 日々の家事でいっぱいいっぱいの私はKに特別手をかけて何かをするということはありません。逆に私のほうがKから、世の中にはいろいろな人がいること。助けてくれる人も沢山いること。友達の暖かさ。人への感謝の気持ち。私はKがうまれるまで本当に障害に対して偏見をもっていたこと。子供が健康に生まれることのありがたさ。そして障害があっても我が子はやっぱりかわいいこと。親として、人として沢山考える機会をあたえてもらっています。

もう一度、今、「ダウン症じゃ嫌なの?」と聞かれたら、「大変なことや困ることは多いけど別に嫌ではありません。とても刺激的な毎日です。可愛くて仕方がないくらいです。」と言えます。ただ「障害を受け入れたのか?」と聞かれるとそれは正直わかりません。‘もしKが健常児だったらな’という思いが、ふとしたときに浮かぶからです。

まだまだ私もKと共に少しづつ少しづつ成長中なのだと思います。

4月からは城東特別支援学校です。新しい環境で心配はありますがきっと少しづつ慣れて楽しんでくれると思います。

まとまりのない話でしたが、最後までおつきあいありがとうございました。