「私の子育て」Yちゃん

Yを妊娠したのは旦那さんが震災後福島県南相馬市にある実家の片付けの手伝いに行ってからでした。

 妊娠中は、つわりがひどく食べては吐くの繰り返し。

 特にバナナを食べた後はアレルギー反応が出て腹痛・背痛・嘔吐と死ぬんじゃないか

 と思うほどひどかったです。

 なので、流産するか無事に生まれてきても障害があるんじゃないかと思っていました。

 なぜか階段から無性に転げ落ちたくなったり、上の子にイライラして起こることが増え、八つ当たりし、上の子もお腹を蹴ってきたり、とても幸せな妊婦ではなかったです。

 ですが、健診でエコーを撮ってもらうと「足が長い」「顔が小さい」「元気」と言われ

 異常と思われることが1つもなく自分の思い過ごしなんだと。生まれてきたら全てが

 ハッピーになるんだ!と思っていました。

 上の子を逆子による帝王切開で出産していたので下の子は自然分娩でと思い

VBAC出来る日赤医療センターでの出産を希望

(挑戦することをTOLACトーラック、成功したことをVBACというらしいです)

前屈陣痛で何度か日赤に行っては帰される日を繰り返しついに破水。

日赤に入院。陣痛がおこらず歩いたり胸のマッサージをしたりして陣痛を待つ

陣痛が10分間隔になり分娩室へ移動するも3分間隔になっても子宮口が開かず

トーラックだったので陣痛促進剤もバルーンなども使えずただ開くことを待っていました。

自分が産むことを拒絶しているようにも思いました。

お腹の赤ちゃんの首にへその緒が絡まっていることがわかり

羊水が少なくなり胎児の心音が弱まってきたので緊急帝王切開手術にて出産

初めて対面した時の感想は、拒絶してると思っていたのに

「二重で目が大きくてかわいいな~。鼻は低いけど色白だし上の子には申し訳ないが

 くらべたらこの子のほうがモテそうだ。」紫色の顔を見て「もっと早くに帝王切開で出してあげればよかった。苦しかっただろうな」と思いました。

そんな幸せな気分が不安になったのは、大部屋に移っても授乳に来なかったから

看護師さんに聞くと「夜中の出産で疲れて寝ていたから」と言われ

「今のうちに休んでね」と優しい言葉をかけてもらいました。

「なんて良い所なんだ!」とは思ったが上の子の時と違って待っても待っても授乳に

来ないのは物凄く不安でした。

ついに授乳にきた!!と抱っこするが全然吸わない。。。。。。。

看護師さんが「やっぱり飲まないか~。しばらく抱っこしてあげてね。」と少し抱っこしたらまたYを連れて行ってしまった。

そして、私は大部屋から個室に移動となった。

 移動した個室はとても広くて豪華でした。

 そして、待っても待ってもYは授乳に来ませんでした。

 新生児科の先生と看護師さんが来て「低血糖であること。筋肉が弱く哺乳出来ないので

 ナースステーションにてブドウ糖を飲ませていること」を説明に来ました。

 翌日、GCUに入院することを告げられ、あとで旦那さんと来てください。と言われた。

 そこで新生児科の先生に筋肉が柔らかいためミルク・おっぱいが上手に飲めない事

 そして血液検査(染色体検査)をしたいと言われダウン症の疑いがあると言われました。

  すごくショックだったけど涙は出ませんでした。

  人は悲しみが強いと涙もでないんだな~とひとごとのように思いました。

  そしてダウン症にみられる合併症はない。と言われ安心しました。

  そして同時に上の子の将来についても不安になりました。

  その日から新生児科の看護師さんが専属で就いてくれました。

  ほとんど眠れずネットでダウン症を調べては記憶し搾乳した母乳を持って

1日に何度もGCUに行きこれはダウン症っぽい。

でもこの特徴はない。とやっていました。

そんな中、上の子の幼稚園のキャンセル待ちの連絡がきてこれから始まる療育のことも考えて入園を決めました。のちにその幼稚園は保護者会活動が盛んで療育どころではなかったのですが、そこで出会ったお友達にはたくさんの経験を親子でさせてもらいました。

退院する2日前、看護師さんが

「世界にはたくさんの障がい者がいるけれど、生まれ持っての方は少ないんですよ。みんな生きていくなかで病気・ケガ・事故などで障がい者になっていくんです。

  Yちゃんは、障がい児ではないですよ。健常児ですよ。」

と言われたので

「「あなたの子はダウン症じゃない」っていってくれませんか?」とお願いした時に

「それは言えません」と言われ「あ~、ダウン症なんだな」と思い初めて泣きました。

  私が退院して外に出ると見慣れた景色がモノクロで歪んで見え今までと同じなのに 全然違うな~と思いました。

その日に上の子の幼稚園の面談に行き入園手続きをし、入園準備が始まりました。

  裁縫が苦手だったので友達に手提げ鞄や上履き入れを作ってもらいました。

  入園式で着る洋服をお祖母ちゃんが買って来てくれ

私は、毎日搾乳した母乳をタクシーで運びミルクの飲み方も上手になった1週間後Yも退院しました。

  毎年桜の木の下で家族写真を撮っていたのでYを連れて4人で写真を撮りました。

  桜が咲いてる間に退院出来て良かったね。と旦那さんと話したのを覚えています。

  退院してきたYは毎日夕方になると発熱し近所の小児科を受診したり

日赤の夜間診療に車で行っては帰されるというのを繰り返していました。

熱が出る度に「このまま高熱で死んぢゃうのかな?」とか「高熱で染色体減ったりしないのかな?」とか思ったりしました。

上の子が入園したあともしばらく続きしんどかったですが、発熱が落ち着きミルクと母乳を飲み6か月を過ぎ離乳食を始めてからは元気になりました。

実家に帰った時に父に「孫が障がい児でごめん」というようなことを言ったら

父に「お前の言ってることは俺には分からん。周りが何と言おうが俺には普通の孫だ。お前も二度とそんなこと言うな」と言われよく分からないけど胸の中の何かが落ち

楽になりました。

父に言われなかったらずっと凹んでて今の自分はいないと思います。

それからは、1か月後の染色体検査の結果を聞きダウン症と決定。

保健所に連絡し療育施設を紹介してもらい、3か月の時に親子教室を見学しました。

そして4か月になる頃無理無理お願いして入所しました。

  また、上の子が所属していた自主保育深川あそび隊をやめるつもりでいたのですが、友達に「外で遊んで子供たちと遊ぶのはYちゃんにとっていい事だと思うから続けなよ」と勧められ継続しました。

  しかし、上の子の幼稚園の行事参加が多かった為なかなか両方とも通えなかったです。

  居るのか?居ないのか?って感じだったと思います。

  それでも、行くとYは喜んでいたので早い療育もあそび隊も良かったと

思っています

  上の子が水疱瘡になり、Yにうつり水疱瘡になった生後10か月に卒乳。

  あまり授乳しなかったんだな~とこれを書いて改めて思いました。

  この頃からズリ這いをするようになる。

  11か月の時初めてトイレでうんち・1歳2か月つかまり立ち

  この頃からタイミングが合えばおしっこもトイレですることもありました。

1歳4か月、38度以上の高熱が続き近所の小児科を受診していました。

  唇も赤く、発疹の出て、BCGの痕も赤くはれて・・・

  「川崎病っぽいけど・・・違うかな」と言われましたが症状は変わらず

  結果、日赤に紹介状を書いてもらい受診。

  そこでも「川崎病っぽいけど、熱下がったしダウン症の子は川崎病になる確率が低いからね。違うと思うよ。でも念のため心臓のエコーを来週やりましょう」と言われ

  1週間後に日赤に行く日に発熱・唇の赤み・発疹・指先の皮が剥けてる・BCGの腫れ

  などが診られ不全型川崎病と診断され即入院。点滴治療をしました。

  そして珍しいケースなのでデーターを残して今後に役立てたいと言われました。

  その後、1歳7か月椅子を押しての歩行・1歳8か月一人立ち・1歳10か月一人で歩き始める。

  上の子が卒園し入れ替わりでモンテッソーリの幼稚園に入園。週1日音楽リズムの日に登園。この頃はほとんど発語はなかったように記憶しています。

  運動会の練習を期に週2日に。

  1歳過ぎた頃から斜視が気になり始め眼鏡をしていましたが改善されず運動会が終わってから斜視の手術をしました。

  幼稚園には楽しく通っていましたが・・・12月あたりから行きたがらなくなり

  年が明けてからは、幼稚園リュックを隠す。泣いて嫌がる。行ったとしても入りたがらない。園長の顔を見ると逃げる。幼稚園脱走・・・など登園拒否が続き先生に相談するも理解してもらえず、改善も期待できず、Yのお気に入りの先生が退職されると聞いたので転園を決め。2月に区立の幼稚園を探し始める。

  3月に今の幼稚園入園が決まり週2日・介助員が就くまで付き添うという条件でした。

  4月に入園。クラスの子に「なんで赤ちゃんがいるの?」とか聞かれました。

  そう見えるんだな~と改めて思いました。

  1回目の教育委員会の判断は介助必要なしでした。

  園長先生はもう一度見てほしいと頼んでくださり作戦まで考えていました。

  作戦とは、私は離れていて担任の先生のみでクラス全員でルール遊び(フルーツバスケット)をする。と言うものでした。

  登園して準備が終わるとフルーツバスケットの説明が・・・・でも当の教育委員会は来ず、そしてYも椅子に座って聞いている・・・。

  これもダメか・・と思った時にY、教室から脱走!!滑り台まで走る。登る。

用務員さんが走る。捕まえる。の滑り台まで走る時に教育委員会登場!!

  見事、介助員ゲットしました。

  それからは、楽しく幼稚園に通い年長になると専属の介助員さんが就き更に楽しくなったようです。

クラスの子の名前を覚え。工作をして。お絵かきをして

  やってきたことをカタコト単語で教えてくれるようになりました。

  運動会のお遊戯、子ども会の劇、お茶会、遠足、行事も楽しく参加しました。

  ここ最近は幼稚園の行事で頑張ってるとなると寝言がひどくなり何度も起きてしまいますが、クラスのお友達にも恵まれ赤ちゃんぽいYちゃんとして優しく接してくれ嫌がることなく楽しく通っています。

  昨年、小川歯科でフッ素をしてもらった時の事、「虫歯あるね~。自然治癒しちゃってるから治療しなくていいけど歯ブラシはきちんとしてね」と言われ虫歯って自然治癒するんだ・・・・。ということを知りました。

  就学相談は、やりたくない時期と重なったからなのか実力なのか結果は散々。

  IQ40+αと言うものでした。

  それでも評価は良い方だったようで支援校判定でしたが支援級希望でというと

  段取り通りにやってもらいますけど・・・って感じでした。

本当は幼稚園のお友達と同じ小学校の支援級に通わせてあげたかったのですが、学区の壁は分厚く乗り越えることも壊すことも出来ませんでした。

  そんなこんなで4月から学区の小学校の支援級に入学が決まりました。

  ま~、行事等の付き添い・Yが通えないとなったら転校という条件ですが、1日でも長く通えてYのことをたくさんの人に知ってもらえたらと思っています。

  これから何が起こるかは分からないけど

  何とかなるんだろうなと思っています。

  最後に私の勝手な考えですが・・・

  ママ友が、「Kは、Yちゃんを育ててて大変だよね」と言うけれど

  うちにはなんちゃって健常児の上の子とダウン症のY。二人育ててるけど大変なのは上の子の方だし、健常児も障がい児も一緒だと思っています。

それから、障がい者って一言でいうけど「一人で生きていくには世の中には障害が多すぎて大変だから誰かの手助けがたくさん必要な人。」って私は思っているので

寝たきり老人もボケて徘徊しちゃう老人も障がい者ってことになる。

と言うかみんな一人では生きていけないし誰かの手助けがあって生きている。

「人は健常で生まれてきていずれ遅かれ早かれ障がい者で死んでいく」

Yはだいぶ早くにそうなっただけで私もいずれそうなる。

「お前の言ってることは俺には分からん。周りが何と言おうが俺には普通の孫だ。お前も二度とそんなこと言うな」

あの日父にそう言ってもらったからこんな風な考えになったのかもしれないし。

Yを育ててきてそう思えたのかもしれない。

誰が何と言おうと「我が家はこれが普通」それでいいのだ。

  そして、Yが生まれてきたから

それまではテレビの中の誰か知らない人の世界、道端で見かける人の世界、

想像すら出来ない知らなかった世界を見て体験して出会いがありました。

  1度の人生、人の何倍も楽しませてもらってる。

そう思ってこれからも家族で普通に楽しくやっていきます。  

最後に親子教室に出会い通い先生の愛と時には厳しいご指導で何度も救われました。

また、親子のお友達ママさんたちとの出会いは一人じゃないんだと勇気づけられました。

ここ以外にもたくさんの方の愛と優しさと厳しさで助けられました。

ありがとうございました。これからもお世話になります。

  聞いてくれてありがとうございました。

  以上