「私の子育て」Mちゃん

今日は私が母になって6年。就学前の娘の成長を振り返る機会をくださりありがとうございます。

人前でお話しする事に慣れておらず、お聞き苦しいとは思いますが、お付き合いの程よろしくお願いします。

私がM2を出産したのは2010年1月1日、里帰りしていた宇都宮市の病院で産まれました。

お産は約13時間かかり、微弱陣痛だった為、促進剤を射ち、吸引分娩でした。吸引して出てきたとき、M2は直ぐに産声をあげず一度何らかの処置をされて、泣き出しました。

「泣きました!!」と看護師さんが言うと、すかさず「お母さん、かわいい女の子ですよ。」と側へ連れて来て抱かせてくれました。

私は体が硬直して思うように手が曲げられないながら、M2を初めて抱き顔をみて、「あったかい。とりあえず無事に産まれてきてくれて良かった。」ただそれだけで、正直、可愛いだなんて思いませんでした。

思い描いていた育児とはかけ離れたM2との生活がスタートしました。

M2が産まれてから4歳位まで、睡眠について本当に苦労しました。赤ちゃんの思うように寝てくれないのは勿論の事、夜もまとまって寝る事は少なく、2時間に一度は起きて、泣くの繰り返しが続きました。ベビーカーに乗る事も嫌がり、四六時中、抱っこしていました。

生後10ヶ月を過ぎた頃、疲労がピークに達して、私が帯状疱疹になった。今まで味わった事のない、チクチクと刺すような痛みで、左側の胸から背中に赤く垂れ下がる様な発疹ができた。痛み止めを飲んでも、浅くしか眠れない、薬を飲む事によって、M2への母乳をあげる事ができなくなった。夜通し泣き続けるM2に、一緒に泣いた。

お互い睡眠はほとんど取れていなかったのではないかと思います。

とにかく必死で生き抜いた、いっぱいいっぱいの時期、「乗り越えられない試練はない!!」と自分に言い聞かせた。

夜泣きは何年も続きましたから、2,3歳と大きくなってからの夜中の遊び相手はしんどく、本当にこれは何の修行なんだろうと、早く解放されたいと願ったものです。

1歳を過ぎて歩行がしっかりする様になると、公園やお散歩などの軽い運動をする事が増えた。外へ出る事が増えると、私も気分転換になるし良かった。しかし、一瞬でも目を離したすきに居なくなり、二度と会えないのではなかとヒヤヒヤした。こっちは必死で探しても見付けた時には別に?

と私を探しもせず、泣きもしないから困ったものだった。

以前は北砂のアリオ周辺に住んでいたので、砂町銀座などもよく利用していたのですが、お店の看板、時に焼き肉屋さんのピカピカ光るもの、床屋さんのクルクルは、よく足止めをくらった。さぞかし魅力的だったのでしょう、しばらく眺めていました。よく行く所は道を覚えるのも早かったので、別のルートでは、泣いて、座り込んでイヤがった。この頃のこだわりは数知れず、スーパーでよくやっていた事、6Pチーズの箱をキレイに並べる、積もうとする。

こだわりに振り回される日々でした。

また児童館や区の体操などにも参加する様に行ったものの、自由に遊ぶ時間はその場にいても、はじまりの会、おわりの会、みんなでゲームしましょう、手遊びしましょう、となると部屋から逃げ出し、追いかけて連れ戻そうとすれば、からだ全身の筋肉を使って、抵抗したかと思えば、急に力を抜いて、ひっくり返る、本当に気を付けないと、頭を打ちつけてケガをさせてしまう・・・。といつも参加できない事を後悔して帰っていく。何をしたいのか?何が嫌でどうして嫌なのか?気持ちが通じ合わなかった時期。それでも何かしなきゃと、みずべに行ったり週に2つの児童館へ通った。日によって何かのタイミングで参加できる事が増えてくると、お母さん同士話す機会ができ、他の子との成長を比べては、「他の子は単語がいくつも出ているのに、M2は泣いたり、怒ったり、感情を伝えるアクション以外は無口だな」「集団で何かをするのを嫌がったり、他の子に興味を示さない。」

M2と生活する中で何となく感じる違和感が急に大きな不安へと変わっていった。

1歳半検診の時、ことばの遅れや、その他気になる事を相談し、経過観察となった。色々とネットで発達の事を検索しては、不安に押しつぶされそうになった。

名前を呼んでも振り返る事は少なく、肩をトントンとたたいたり、正面に行き「M2」と呼ぶと一度こちらに注目をするといった感じでした。

無口をつらぬいていたM2にも、2歳過ぎて発語があった、

アンパンマンを見て、「アンパ、アンパ」、主人に向かって「パ、パ、パ」と言い始めた。やっとこの時が来た!!ととても嬉しかった。

そして2歳半、おやこ教室に通う事も決まった。

「M2ちゃん、おはよう!」といつも温かい笑顔で迎えて下さり部屋へ入る事も嫌がらなかった。そして緊張やこわばった表情も段々ほぐれていったと思う。子どもの発達に関する悩みを抱えたお母さん達が、側で遊びを見守りながら、楽しそうに会話していた。ここへ来るまで不安や、葛藤があったのだろうと思うと、私も励まされた。M2はお友達と同じ空間にして、何となく友達や先生を感じて、先生が絶妙なタイミングできっかけを作ってくれる。子ども主体なんだけど、メリハリがあり、自然とその中で何かが芽生える瞬間がある。「遊び」を通して、色々な事を覚えていく。

家庭ではなかなかできない遊びは、M2と私にとって、新鮮で楽しい体験でした。大豆プール、毛布のブランコ、暑い日には水遊びしたり、大きなトランポリンを飛んだり、戸外活動。あっという間に時が過ぎ、とても充実した日々でした。

そして座って本やペープサート、話を聞く事も、最初はイヤがり、その場を離れたり、落ちつかない様子でしたが、次第に座って話が聞けるようになり、早いうちに出来るようになって良かったなと思いました。

そして同じような悩みを共有しながら通える場があるという事がとても心強かったし、M2を育てていく色々な事に直面から向き合っていこうと勇気が持てました。

3歳半を過ぎた頃、幼稚園での生活を視野に入れて、今のM2の発達はどの段階にいるのだろうと思い、東部療育センターで検査を受けた。広汎性発達障害(軽度)正常域の知能と診断された。この何年間、M2を育てていて、発達障害ではないかと疑いながらも、見た目ではわからない、身体的や知的の発達には大きな遅れはない、いつか成長の過程で周りと同じになるのではないかという思いも少しはあったので、治らない障害である事を受け入れるまでの時間は短いなりに、キツイものであった。幼いうちはうまくやれても、後々つまづくのか?心配で将来を悲観してしまう。なぜこうなったのか?妊娠生活に悪影響があったか?吸引分娩のせいなのか?そもそも遺伝で私や旦那が発達障害なのか?親や兄弟、頭の中で何度も家系図を辿った。

でも暫くすると、疑いとモヤモヤが晴れ、安堵感も大きかった。M2を抱きしめて、「今まで、わかっていたつもりで、わかってあげられなくてごめんね。大好きだよ。」と申し訳ない気持ちと、不安を埋める様に何度も抱きしめました。日々の生活をていねいに、楽しみを一緒に味わえる様、弱い部分を知り、どうしていくべきなのかを考え、改めて、母として強く前を向いていこうと思いました。

そして幼稚園での生活も始まり、この2年間ぐんと成長しました。これまで、教室での沢山の経験があったからこそ、見通し、基本的な生活の事など、安心してスタートする事ができました。はじめのうちは、大きな集団に、あっとうされていたと思いますが、お世話好きのお友達が誘ってくれて、少しずつ遊びの場が広がり、自分からもかかわりを持ちたいという気持ちを持っています。ルールの遊びや言葉が出にくかったり、不安が強かったり、うまくいく事、うまくいかない事、沢山の経験を積んでいます。

4月から小学校へ進み、大きくなると子供の世界はどんどん広がり手を離れていくと思いますが、親としてM2の困り感に寄り添っていける様に、親子の時間を丁ねいに積み重ねていきたいと思います。

以上が私の子育て体験談になります。

ご清聴ありがとうございました。