「私の子育て」Kくん

Kは平成20年6月に2206gで生まれました。結婚して10年目に授かった我が家の第一子です。学生時代に保育園でアルバイトしたり、小学校の先生になりたかったり、もともと子どもが好きで、自分のこどもを待ち望んでいました。しかし、主人の経営する飲食店の手伝いで完全な昼夜逆転の生活が続き、体調を崩したりもしてなかなか子宝に恵まれませんでしたが、あきらめかけた39歳で妊娠しました。妊娠中は食べつわりもありましたが、母子ともに順調でした。検診で二度ほど「頭が小さいようなのでもう少し糖分を摂取した方がよい」と言われましたが、それ以外は問題なく、初産で高齢のわりには安産でした。

 しかし、生まれて24時間経たないうちに「チアノーゼがあるので転院させます」と言われ驚きました。そしてKは主人と私の母に付き添われB病院に搬送されました。私は一人産院で過ごしました。

トイレか休憩室に向かおうとしたとき、ナースセンターのカウンターに置かれた私のものと思われるカルテがふと目にとまり、そのカルテにダウンと記入がありました。「ん?これは血圧などが低下したダウンなの?ダウン症のダウン?」と一気に不安でいっぱいになりました。生まれた時の顔が確かにふつうとは違っていたかもと思いました。

そしてB病院と産院とを往復した五日間は不安だらけでしたが、保育器の中でたくさんのチューブにつながれても一生懸命呼吸している息子に、愛おしさを感じ、幸せな気持ちになりました。

産院を退院してからは自宅からしぼって冷凍した母乳を運びKに会い、そのあと店の手伝いをする毎日でした。黄疸がなかなかひかずあっという間に一カ月が経とうとした頃、染色体の検査をすることになりました。結果がわかるまでの2週間の間に、回診に来た耳鼻科の女医が「ダウン症の子は耳が悪い子もいるからね」と一言。まだ結果待ちで何も聞かされていないのに、驚いたのと「あーやっぱり」と思いました。それでも違うかもしれないという気持ちもあり、結果がわかるまでとてもモヤモヤした2週間でした。

検査の結果はやはりダウン症。標準型と転座型ということでした。

泣かないように頭の中で違うことを考えたり、遠くを見ていました。部屋を出て廊下にいた私の父と母の顔をみた瞬間、涙があふれ「やっぱりダウン症だったよ」と言うと「私達も一緒に支えるからだいじょうぶよ」と言われ、また涙でいっぱいになりました。私自身は大きな病気もせず健康優良児なみなので、まさか自分の子どもが・・・という驚きはありましたが、何よりやっと授かることができた命だったので、障がいは私の中にはすぐに受け入れられることができました。

とはいえ、これからこの先、我が子をどうやって育てれば良いのかが心配でした。それは私がダウン症についてあまりにも何も知らなく、Kの将来に対する不安があったからかもしれません。

告知されてからネットでダウン症のことを調べたり、その当時ちょうど新聞の記事にダウン症の特集がされていたのを読んだりしていました。ネット上でダウン症協会のホームページなどを見て、子どもたちのきらきら輝く笑顔が、私の心配を拭い去り、日に日に成長するK1を見ながら、母として何をすべきか考えるようになり、とても勇気づけられました。

生まれて3か月後には、心臓の手術のため約2か月入院し、手術を受けました。その後、保健所に相談し、当初は保健所の発達相談を受けていましたが、親子教室を紹介して頂きました。そしてN先生と面談し、見学を通し先生方のあたたかさや子ども達が楽しみながら活動している姿を見て、4月から登室させていただくことになりました。親子教室では、たくさんのママ達に会い、Kは先生やおともだちと会え、りんご組から楽しく過ごすことが出来ました。

保健師さんに紹介いただいた先輩ママ達をはじめ、多くのママ達のお話を聞くことが出来て、私ひとりではないんだな、と思いました。教室に入る前に新聞の記事の中に親子教室のことが載っていたものを読みました。その中で記者が「親子教室はまさに親の教室である」とコメントされていて、本当にそのとおりだと思いました。

りんご組からぶどう組の頃は、やっと歩けるか歩けないかぐらいで、教室では運動発達相談を受け、また他区のダウン症協会支部のリトミックや体操を受けたりしていました。指導して下さる先生方からはもちろん、多くの人たちと会い、多くを学ぶことが出来ました。

その頃、ある先輩ママが「これから健常の子とどんどん差が出てくるわよ」とお話くださいました。ダウン症の子を持つ親としてそれは理解しているつもりでしたが、あらためてこれからの厳しい現実を目の当たりにした言葉でした。

他に私がKのことで良くも悪くも印象深い言葉、経験がありました。そのうちの2つをお話したいと思います。

マンション内でよく会う中国人ママとの会話で、Kがダウン症とわかると「産む前にちゃんと検査はしなかったの?」と言われ、実際していなかったのでそのことを伝えると「うーん、それは」というような曇った表情になりました。その時、境界線をひかれたような気持ちになりました。現在、出生前検査や着床前スクリーニングなど取り上げられることが多く、そういった時は必ずダウン症や染色体異常のことが書かれ、そのたびに複雑な思いになります。倫理上、いろいろと問題はありますが、不妊治療で悩んでいる人たちにとっては重要な研究でもあります。障害がある、なしに関係なく人の生命の尊さや重さを考えさせられる経験でした。

そしてふたつめはその言葉より大切な友人たちに感謝の気持ちを伝えたいので、ぎりぎりまで迷いましたが、原稿に書くことにしました。

親子教室とC以外に幼稚園や保育園に通わせていなかった3歳になるKを見て、親子教室とは無縁の医師から「幼稚園に行かせないから、ほら、変な言葉をしゃべっているわよ、ますます障がい児の顔になってる」と言われました。じっくりていねいにKを指導して見守って下さっている親子教室が、Kにとってはベストな居場所と選択したつもりでしたが、私のエゴだったのかもしれないと、その医師のことばで少し思うこともありました。

こどものことでこんなにも自分が心を痛めたのははじめてでした。でもその時に、ママ達の存在が私にはとても大きく、ママ達に支えられ助けられました。大切な友人たちに出会えた事、そして支えていてくれる友人たちに、心から感謝しています。ものすごい負けず嫌いの私は少し時間が経ってから「今にみてなさいよー」とその医師に言い放ってやりたい気持ちになりました。

しかし現実は、やはり聞き取れない発語で歌を歌ったりして、マンションの健常児にはドン引きされています。でもそれは「親子教室とCだけしか通っていなかったから、、とは思っていません」と、今はその医師にはっきりと答えられます。

現在のKは、多動やこだわりがあり、母としてはいらいらすることがたくさんあります。しかし、単語がほんの少し明瞭になったり、K独自の創作ダンスにみがきがかかったり、そして何より元気いっぱいです。

親子教室で過ごした年月は、これから将来、Kにとっても私にとっても、かけがいのない貴重な時間だったと思います。まだまだできないことはたくさんあり、迷ったり立ち止まったりすることもあると思います。しかし、将来、一人の人として働き、生きがいを見つけ自立できるよう、そして心豊かに生活できるよう、母と子とともに前に進んでいきたいと思います。