「私の子育て」Nちゃん

皆さんおはようございます。いちご組のNの母です。娘の診断名ですが、2歳半の時に「広汎性発達障害」、5歳前に「自閉症スペクトラム」と診断されています。4歳の時に、愛の手帳4度を取得しました。今現在のNの様子を知る人には、Nが言葉が遅くて、人に興味の薄い子だったとは、ほとんど想像できないと思います。今は、こちらが耳をふさぎたくなるくらいのおしゃべりですし、言葉も考えも大人びていて、一見、どこに問題があるのか分かりにくい子です。でも、気持ちのやりとりで難しいところがあったり、人の言葉が届き難かったり、不安やストレスのある時でしょうか、こだわり行動が出たりします。そんな娘のこれまでを振り返ります。長くて聞き苦しいところもあるかと思いますが、よろしくお願いします。

 わが子の第一子、Nは2008年5月に3618g、大きく元気に生まれてきました。妊娠中も経過は順調、多少のつわりはありましたが、楽しい妊娠生活でした。生まれてから1か月は、よく泣いて起きている子だったので、私もなかなか休めませんでしたが、一月経つあたりから、授乳と睡眠の時間が決まってきたので、とても楽になりました。Nはすくすく大きくなるし、独身で暇をしている私の友人たちが、相手になってくれたりしたので、育児のストレスを溜める事も少なかったです。でも、後から振り返ってみると、もう3か月くらいの時から、目が合いにくい、目が合ったとしてもこちらを見ているようで見ていないような特徴的な目つきをする、機嫌が悪い時ほど抱っこを嫌がる、放っておいても寂しがらない、等の様子がありました。

 1歳を過ぎても体の成長は順調なため、周りの子に比べ、おもちゃで全く遊ばない、人見知りをしない、後追いしない、家の中で唯一好きなのはテレビで、テレビへの執着がすごい、などありましたが、「Nは、あまり人に甘えない、ドライな子なのだな」と思っていました。むしろ、決まった時間に起きて、決まった時間に授乳や食事をし、寝る時もスッと寝る彼女を、なんて育てやすい子なんだ、と思っていました。Nがあまりに私に甘えてくれないので、「寂しい、、、」と友達に愚痴をこぼす事もありました。発達の心配があるとか、人との関わり方が変だとか、そんな風に考えた事はありませんでした。

 当時、育児で困っていた事と言えば、家の中で人と向き合って遊ぶ事が出来なかったことです。すぐにテレビを求めて泣き、さすがにテレビばかり見るのは良くないと思ったので、1日3回は外に遊びに出ていました。あとは、毎晩のようにすごい夜泣きがありました。「夜泣き」なんて可愛いものではなく、寝ぼけた状態でサイレンのように叫び、暴れます。それを収めるためには、家中の電気をつけ、抱っこで歩き回ったり、床に転がして泣きやむまで声を掛けたり、最終的にはテレビで何かを見せる、そうでもしないと収まりませんでした。これが夜中に数回あるのが普通で、明け方くらいからやっと落ち着いて眠れる、、、という生活が随分続きました。

 娘の成長を心配することもなく、1歳半健診を受けました。そこに「指差しをしますか」という項目があったので、迷うことなく「いいえ」に○を付けて提出しました。すると、数か月後、保健所より経過観察に呼ばれました。「相変わらず指さしもしないし、言葉もほとんどないけど、それが何の問題なのかな?まだ2歳前だし・・・」くらいにしか思っていなかったのですが、保健師さんから話を伺っているうちに、Nの様子・行動の多くが、発達の遅れの兆候に当てはまる事を知り、衝撃を受けました。指を差さないことは「3項関係」が出来ていないことの表れだと知りました。自分以外の誰か、第三者に物を伝えようとする時に、人はその物を指で差して第三者に伝えるのだそうです。Nは一度も指さしをしませんでした。指差しをしないどころか、いわゆる「クレーン現象」と言って、私や夫だけでなく、誰彼構わず腕を掴んで、目的地まで引っ張り、例えば物を取らせたり、電気のスイッチを押させたりしていました。人に何かを「伝えて」頼むのではなく、人の腕をクレーンのように「道具」にして、物事を解決していました。そういえば、Nの求める抱っこは、いつでも私に抱きつくのではなく、私に背中を密着させ、自分は前を見ていました。甘えて抱っこしてほしいのではなく、眺めがよい事、高いところから見える事を求めていたのです。母親として、これはとてもショックでした。Nには、私に伝えたい事や、共感して欲しい事がないのだろうか、そういう気持ちがNには生涯芽生えないのだろうか、、と真っ暗な気持ちになりました。

 保健所で、頭では「そうゆうことではない」とわかっていても「私の育て方が悪かったのでしょうか、、、」という言葉が口をついて、涙が止まりませんでした。その日の夜から明け方まで、夫と二人でパソコンを睨み、検索しました。そして、どうしたってNに発達の問題がある、という事実から逃げられないと思いました。朝になり、9時になるのを待って前日に話した保健師さんに電話して、すぐに会う約束を取り付けました。夫と二人で、自分たちは今まで気が付かなかったけど、Nに発達の問題がある事が理解出来た事、すぐにでも彼女の為になることをしたい、施設などがあるなら紹介して欲しいと強くお願いしました。保健師さんは、すぐに親子教室の見学の約束を取ってくださいました。自分たちで調べ上げた結果、Nに何か問題があると、ほとんど100%でわかっていたものの、心のどこかで「発達に問題のあるお子さんを毎日見ているプロの方に判断してもらって、それでもダメってことなら、本当にあきらめるしかない」と、まだどこかで希望を持っていたのも事実です。

見学をし、先生方にNの様子を見てもらって、保健師さんから「さぁ、今日は帰りましょう」と声を掛けられて、「ちょっと待ってくれ」と思いました。ここで大事な事を聞かなきゃ帰れない!と思って中川先生のところに戻り、「先生、やっぱりうちの娘は何か問題ありますか」と伺ったところ、先生は「Nちゃんは、お友達とうまく遊べない、という事がありますよね。ですので、教室に通って様子を見てみましょう」と、とても優しく言ってくださいました。それでも私はあきらめがつかなくて「何度もすみません、先生から見ていただいて、Nは教室に通った方がいいってことですよね?」としつこく確認しました。やはり先生は「そうですね、通って様子を見ましょうね」と優しくいって下さいました。

 私は泣くのを堪えるのに必死だったので、すごく嫌な感じだったと思います。家に帰って友達に電話して「やっぱプロの先生に見てもらってもダメだったー」と大泣きし、やっと覚悟が決まりました。Nに何か問題があるのは確かだけど、おやこ教室という頼りになる教室とも繋がることができたし、あとは頑張るしかない、、、とも思えました。

 翌週、2010年3月末から週に1回の「あそびの教室」に通わせてもらいました。

N、1歳10か月で親子教室のスタートです。週に1回、先生方に、温かく優しく迎えていただき、Nはぐんぐん成長しました。苦手だからといって外遊びばかりするのではなく、先生方がNに対応してくださる姿を真似して、家でもじっくり根気強くやり取り遊びをするようにしました。少なかった言葉も、次第に「楽しいねー。あったかいねー」と自分の気持ちを単語で言うようになり、冬になる頃には、3語文で人に何かを伝えようとするまでに成長しました。

 家での生活の見直しで大きかったのは、テレビを見るのを止めさせた事かと思います。東部療育センターの先生に「テレビへの執着がすごくて家で一緒に遊べない」と相談すると、Nのような子どもは「視覚優位で、視覚からの刺激がとても強くて、テレビから離れられないのかもしれない、、、」と言われました。「テレビを見せるのを止めるといいんですかね?」と聞くと、「必ず全ての子に有効というわけではないので、、、」と濁されましたが、確かにNの映像への執着は普通ではない、と思っていたので、早速その日からテレビ断ちをしました。日中は、「テレビを見せてくれー!」とごねる・泣くが続くし、夜泣きの時はテレビの刺激で覚醒する、という事をしていたので、最初は大変でした。しかし、1か月もすると、テレビはもう見られないんだ、ということは理解できたようで、しぶしぶと私との遊びに付き合ってくれるようになりました。本当にこのテレビ断ちの効果があったのかどうかは謎ですが、家の中でも人とのやり取りする機会が増えた事は、良かった事だと思っています。もちろん、大好きな物を取りあげっぱなしなのは可哀想なので、お友達の家やお祖母ちゃんの家に行った時には、時間を決めてテレビを見せていました。家にテレビなしの生活はそこから2年半続けました。

 あそびの教室での一年で、とても気持ちがしっかりしました。もちろん今でも娘の障害の事で涙をすることは多々ありますが、教室で先生方は、この上なく優しく温かく娘を見守って下さること、かわいがってくださることで、なんだか娘も私も、これでいいんだ、こんな私たちでもいいんだ、と肯定していただいた気がしたんです。自分一人では、困難のある娘を、素直に可愛い可愛いと育てることは難しかったと思います。でも、教室では、先生方もお母さん方も、こんな私たち親子を優しく迎えてくれて、手のかかる娘の事も可愛いと言ってくださる、いい子だと言ってくださる。これが親である私への最大の療育でした。私が「大丈夫、大丈夫、Nはうちの可愛い宝物だ」と思えたから、Nとここまでやってこれたのだと思います。

 あそびの教室の後は、ぶどう組、ひまわり組に通わせてもらいました。その後は区立の2年制の幼稚園に入園し、週1回はいちご組に通わせてもらっています。お友達と遊びたい、という気持ちも育ち、人との関わりが楽しいことも感じているようですが、今はまだ「この子と一緒に遊びたい」よりも「この遊びがしたい!」の気持ちが強く、相手に合わせる事が難しいのか、私やお友達のママを間に入れて遊びたがります。幼稚園では、間に入ってくれる大人がいないので、一人で本を読んだり、一人で何か気ままに遊んだりが多いようです。それについて、何気なく聞くと「お友達お遊ぶのは楽しいけど、疲れちゃうんだもん。Nちゃんには仲間がいないし、、、」と言います。Nの言葉の多さや、一方的なところにお友達が引いてしまうことも想像つきます。「今やらないといけないこと」に集中できなかったり、先生の指示がちゃんと通らないことが多々あるようです。ちゃんと相手の方を向いて話を聞いているのに、その言葉が彼女の心にはなかなか届かない、、、そんなところがあります。

 時折、こだわり行動が出るのもNの大変なところです。常にではなく、不安な時、気持ちが休まっていない時にこだわりが出ているように思います。「忘れること、無くすことへの不安」が彼女のこだわり行動のポイントです。

 気になった事、驚いた事などを忘れるのが不安になり、私に対して同じことを何度も話し、確認します。教室や幼稚園でも「ママに覚えていてほしい、早くママに言いたい!」と不安で仕方なくなり、パニックになったり、泣いたり。家ではノンストップでずっと話してくる娘に、根気よく付き合ってあげなければと思っても、私も受け止め続けるのは難しく、精神的に追い詰められることもありました。

 無くすことへの不安は、「工作に使いたいから」ということがきっかけで、お菓子やオモチャの入っていた「袋や包装紙」を捨てられなくなり、外出中に「あの袋捨てちゃった?ちゃんとしまってある?」と気になりだしてパニックになることも。こだわりの激しい時は、ただの小石や砂、ホコリ、人の髪の毛まで集めてくることも。

 幼稚園では、気になって何も手がつかなくなるので、先生に事情を話し、いつでも拾い集めをして気持ちを落ち着かせらえるよう、ビニール袋を持たせたり。当時、Nの捨てられなくなった物が溜まり、大きなゴミ袋でいくつもありました。恐ろしく記憶力の良い娘なので、捨てた、とか、無くなった、となった時に、またNがパニックになる事が怖くて、そのゴミのような物を保存していました。その事では夫と何度も衝突しました。夫は「そんなに覚えていないだろうから、こっそり捨てちゃえば」と簡単に言うのですが、でも私はNが「ママなら捨てないでいてくれる」ということでやっと安心感を得ているのが分かっていたので、とても捨てられない、と反発しました。でも実際は私も捨てたかったし、このこだわり行動を止めてほしくて仕方なかったです。親子教室の先生、東部療育センターの先生にも何度も相談し、「こだわり行動は、ある程度は認めてあげないといけないけど、一緒にいる家族が辛い事や、社会的に許されないことは止めないといけない」と教えていただきました。あとは「私がどこで線引きをするか」で悩みました。

これぐらいまでは許してあげたらいいのでは?というラインと、でも私が生理的には捨てて欲しいと思ってしまうライン、こんな物まで集めてしまうのは社会的におかしいんじゃないかというライン、、、本当に悩みました。そんな時、ふとした集まりで先輩ママたちに相談しました。先輩たちは「それは大変だね、、、」とか「ごみを集められると辛いよね、、、」と私の気持ちに共感してくれました。でも、「いいじゃん、集めさせてあげなよ」とも言ってくれました。「だって、Nちゃんはそれで安心するんでしょ?いくらでもやらしてあげなよ~、お安い御用じゃない」と。そんな風にあっさりと認めてくれる事に、驚きました。私は「Nにそうさせてしまう私の育児が一番いけないのでは」と心のどこかで思っていたのです。でも「Nちゃんの気持ち、わかるわ、集めさせてあげて」とまで言ってくださり、それまで「止めさせたい、止めさせなきゃ!」と切迫した気持ちが本当に随分と楽になりました。親子教室のお母さん達は、それぞれに、お子さんの発達のこと、こだわりの事で悩んでらっしゃるから、そのお母さんたちの言葉には、確かさと温かさがあり、本当に励まされました。

 Nのこだわりは、ある日突然マイルドになり、次第に消えていきます。最近では、こだわり行動が起きている最中に「自分がやっている事はおかしい、でも不安で止められない」とN自身が気づき、悩んでいます。一番つらいのはNです。親としては、厳しく叱ったり、自閉的な思考回路に一緒にはまるのではなく、Nの気を上手く紛らしながら、こだわりが収まるのを焦らず待ってあげたい、と思っています。

 最後に「きょうだい」のこと、就学のことを話させてください。Nには3歳差の弟のYがいます。Yにはダウン症という障害があり、今はぶどう組でお世話になっています。Nが就学相談で「通常級判定」をもらい、後は、どの小学校を希望するかを決める時、私が一番に考えていたことは、「3歳差のYが3年後、もしかしたら、支援学校ではなくて、支援級に入る可能性もある。だからNを支援級のある小学校に入れておきたい。二人を同じ学校で学ばせてあげたい」とその事ばかりでした。色々な本や勉強会、テレビの福祉番組で「きょうだい」の関係性は難しいと見聞きし、頭でっかちになっていました。「小学校が別々になってしまったら、年頃になったNが、弟の障害のことを友達に話すことが出来なくなって、苦しむ日が来るんじゃないか、、、」そんな悲しい思いをNにさせたくない、その一心で、Yにとっての最善の学びの場が何処かなんて、今はまだ誰にもわからない事なのに、どうしたらNが支援級のある小学校に入れるかをずっと考え、支援級にある学区域に家を探したり、役所や教育委員会にもかけ合いました。

 そんな風にヒートアップしている私に、幼稚園入園の時も「そう意気込み過ぎず、肩の力を抜いて、、、」となだめてくれた大先輩が、また大事な事に気付かせてくれました。「確かに、一緒の小学校で学ばせたい、というお母さんの気持ちはわかる。でもYくんが入学するまでの3年間、Nちゃんにとって小学校という世界の始まりの大事な3年間だよね。であれば、Yくんと一緒に学べるかどうか、という事よりも、Nちゃん一人として考えた時に、どの小学校がベストか考える事も大事じゃないかな」と。そう言われて、私は何も言えず、涙が出ました。本当にその通りなのです。「きょうだい」問題を考えすぎて、今のNにとって何がベストか見失っていました。N一人の事を考えたら、支援級はなくても、少人数の小学校の方がいいのでは、という考えにどこか蓋をしていました。でもYが生まれてからずっと「障害のある二人を同じ環境で育ててあげたい」と意気込んでいた私にとって、頭ではわかっても、すぐに気持ちの切り替えをすることは難しく、言葉が出ませんでした。でも、その先輩が「いつでも、そうやって一生懸命やっていれば、後悔することはないよ、、、大丈夫」と涙ながらに言ってくださり、その優しさに励まされ、やっとやっと私も気持ちを変える事ができました。「きょうだい」のこと、悩まれるお母さんは本当に多いと思います。これからも子ども達の長い人生の中で、子どもも親も、色々と悩み苦しく思う事もあるかと思います。子ども達にとっていったい何が最善の選択か、これは結局、後になってからでないとわかりません。だから、やっぱりその時その時に、やれることを頑張り、あとは前を向いていく強さを身につけたいと思います。

 この4月からNが小学生に。通常級、いわゆる「普通」と言われる子ども達の中でどうNがやっていくのか。勉強の事はさておき、学校生活の流れに乗って行けるのか、お友達とうまくやれなくて、自信をなくしてしまうのではないか、、、、心配は尽きません。これまでの療育中心の生活から、急に小学校という厳しい社会に放りだされる気がしてなりません。でも、Nにとってはここからが正念場、この5年間、親子教室で育てていただき、のばしてもらった力をもとに、自分自身で経験し、考え、どうやっていったらいいかを学ぶ他にないと思います。では、私たち親が出来る事はなんだろうと考えた時にいつも思うのは、生きていく上で必要な力はたくさんあるけれど、Nに「Nの事を大切に思っている人が沢山いるという事、Nにはいいところがいっぱいあるということ」をしっかり伝えてあげないといけない、それがこれからの人生の基盤の力になるのではないかと、そんな風に思います。その力があったら、Nが“難しいところ”を抱えながらも、強く生きていけるのではないか、そう思っています。

 先生方、お母さん方、この5年間、私たち親子を励まし、支えてくださり、本当のありがとうございました。これからも、色々な悩みを分かち合い、笑い飛ばしながら、共に歩ませて頂きたいと思います。