「私の子育て」Sくん

2008年9月 3095gで私たちのもとへうまれてきてくれたS。妊娠・出産の際は何も問題なく、ごく普通のマタニティーライフを送っていました。

 里帰り出産をし、ちょうど出産から1か月後のお宮参りの後、我が家へ帰ってきました。

その途端、まさかのマタニティーブルーに・・・産休ギリギリまで働いていた為、社会からの疎外感、近所に顔見知りがいない孤独感、待機児童になり職場復帰が出来ないかもしれないという不安。その頃は、朝、主人を送り出し、夜まで我が子と二人だけの時間を充分に楽しむ事が出来ず、帰宅後三日が経つと、また実家に帰ってしまう自分がいました。

その後、無事保育園が決まり、翌年の4月、Sの生後7ヶ月で復帰しました。

 母乳も良く出、良く飲み、夜泣きもなく、それなりに寝てくれて特に辛かったと感じた事はありませんでした。手がかからないと言えば、ウソになりますが、一人目だし、赤ちゃんだものと思う程度で過ごしていました。首の座りも、発語についても特に指摘を受けた事はありませんでした。

 ところが、2歳ごろでしょうか、保育園の食事で「S君は特別席でご飯食べてるんだよね~」と他のお母さんから聞き、真意を確かめるべく、保育参観した際、うちの子だけが壁に向かって一人で食事をとっていました。先生に尋ねると、「S君は食事に集中できないので色々疑問がありましたが、せっかく入れた保育園だもの、仕方ないと・・・何も言えずに帰宅しました。それ以外にも、他の子はみんな外の公園へ行くのにうちの子だけはいつも園庭。さらに、延長保育をする際、うちだけ早めに申し出なければならないなど、園から我が家への特別ルールが課せられていました。

 それは、Sが手のかかる子であった為、先生方の人手不足にならないようにと言う園の効率的な運営方針だったのだと、今となっては冷静に受け止めています。

 それ以外でもお椀の蓋、瓶の蓋、回せるものは何でも回しそれを見てはまた回す行為。公園に行っても遊具で遊ばず、ずっと公園の柵(フェンス)の横を走っていました。走るのが速く、瞬きをしたら、私のこの手を離したら、この子はどこかへ行ってしまう、絶対この子の手を離してはいけない、外出時は常にそういう緊張感を持って動いていました。

 ただその頃は、ちょっとうちは変わった子なのかな?と思う程度でした。1人目だし、男の子はわんぱくでいいぐらいに思っていました。ましてや、それが障害だという意識は皆無でした。しかし、2歳半を過ぎた頃、保育園の先生に「S君変わってますよね?お母さん気付いてます?病院行った方がいいですよ」と園で帰り支度をしている最中、突然言われました。不意の事で、全く予期していなかった私にとって、何が何だかわからず、泣きながら義母に電話したら「私は気がついていました。やっと先生は言ってくれたんですね。まずは病院へ行ってください」と。私には全く受け止めきれませんでした。というよりも、受け止めたくありませんでした。それから何日も何日も泣きました。

 2か月後の3歳児検診の時でした。早めに行った私たちは混雑を避け、一番に健診を受ける事が出来ましたが、最初の歯科健診から大号泣。その他何をするのも泣き叫び、周りからは白い目。私自身も汗なのか涙なのかわからない程パニックに。改めて来ますと外へ出るものの、どうにもこうにも収まらず、結局医師の診察は駐車場で行う事に・・・

 これがきっかけとなり、保健所の相談を受け、親子教室を紹介してもらいました。ただすぐに教室へ通うという気持ちになれず、しばらく時間がかかりました。

 公園に行っても、変な子扱いの目で見られるのと思い、人気のない公園へ夜遅くに行ったり、また、保育園でも他のお母さんに会わないよう帰宅ラッシュを避けたりと・・・気がつけば、ママ友を作らず一匹狼となっていました。人見知りと自分に言い聞かせ、園のママ友との接触を極力避けていました。

 3歳になり、第三親子教室の見学に行きました。

手遊びや毛布でのゆらり遊び、普通に出来るものだと思っていましたが、Sは泣いて嫌がり参加もせず、公園へ行ってもやはりフェンス走り、、、涙があふれずっと泣いていたところ、あるお母さんに「うちも最初はそうだったんだから!みんなもう半年通っているんだから、最初からできなくてもいいのよ!家で練習!練習!」と言って励ましてくれたのを今でも忘れません。それから家ではまさに練習練習でした。練習の成果が出て、半年後の3月にはお弁当もちゃんと座って食べ、毛布のゆらり遊び、手遊びなど、それなりにみんなと一緒に参加し、いつの間にか涙を流すことはなくなりました。

 その他、薄暗いレストランが苦手、身体測定が嫌い、病院では常に大号泣、ベビーカーに乗ってくれない、エレベーターでは他の人より先に降りるのが嫌、朝の保育園の送りではクラスから脱走など・・・考えてみると、3歳の頃がとても大変で、手のかかる時期でした。

 苦手、嫌いでも、どんな事が苦手なのか、なぜ嫌いなのかを探るため、あえてムーディーな暗いレストランへ行ってみたり、家で身体測定練習してみたり、元気でも病院へ行ってみたりと、環境の変化を色々と試してみたりしていました。けれど、あまり効果はなかったと思います。

 実は、切り替えが苦手だという事に気が付いたのは、4才になってからでした。すると、途端に今まで出来なかった事が、今までの苦労はなんだったの?と思うぐらい、出来るようになりました。著しい彼の成長を目の当たりにしたのを今でも鮮明に覚えています。彼自身も自信がつき始め、私自身も子育てに希望の光が見えて来たと感じました。

 ちょっと一言声を掛けてあげる、ちょっと人より練習する。ただそれだけの事でした。

 そんな光が見え始めた頃、周りは第二子ブーム。我が家はと言うと、無理!絶対に無理!またもし障害を持っていたら?手のかかる子が生まれてきたらどうするの?病院の先生に何度も聞いたり、ネットで調べたり・・・この気持ちは今でもまだふつふつとあります。兄弟がいた方がいいのかな?いやでも普通とは限らないし。いつの間にか第二子話題は、我が家のNGワードになっていました。

 そして4歳からは親子教室の他に、COCOの個別と集団、リーフ学習塾、プール教室、公文を組み入れました。5歳からは、体操教室にも英語塾も。仕事の合間の出来限りの時間を、フル稼働でSに費やし、Sにとっては連れまわされ、苦手分野を克服する!就学までの2年間、やるべきことはやってやる!と力んでいました。

 アクティブな我が家は、船や飛行機での旅行、キャンプやスキー、ありとあらゆる事、場所へ、時間とお金の許す限り主人と共に二人三脚で(もちろん両母にも応援をお願いしたり)子育てをしました。

 幼児クラスになってから保育園でもSを理解してくれ、一緒になって考えてくれる先生と出会い、定期的に面談をしては、園での様子を教えてもらいました。先生方が、予定を予めSへ知らせてくれて園での対策を施したり、逆にあえて知らせずにどうなったかを、知らせてくれたりとうちの子をしっかりと見てくれているという満足感がありました。

 5歳6歳では、目に見えて苦手分野が減ってきました。それと共に私の気持ちも、普通に出来たら・・・普通の子と一緒に・・・普通に見えたい!と欲が出てきてしまいました。期待してしまう分、出来ないと、何でできないの?どうして?と怒鳴る事も増えてしまい、怒ってばかりの毎日です。怒った後に自己嫌悪、その繰り返しです。理不尽に怒ってしまう私に、「怒らないで、優しく言って!かわいい声で話して!そうじゃないと僕びっくりして悲しくなっちゃうよ!」とごもっともな事を言われます。

 いつもは厳しい私が体調の悪い時「お母さん大丈夫?僕心配で仕方がないよ。早く元気になってね」と優しい言葉も掛けてくれます。仕事で夜いない時は、手紙を書いてくれます。「お母さんのご飯、世界一美味しい!」と褒めてくれます。

 人の気持ちがわかる優しい子に育ってくれた事、心から感謝しています。もし、障害がなかったら、仕事に明け暮れて、まともに子育てせず、もしかしたらきちんと子どもに向き合う事が出来なかったかもしれないと思います。Sが私たちを選んで、生まれてきたのだと思います。

 あと二ヶ月で卒園です。暗闇のどん底に突き落とされては這い上がり、また落ちては、駆け上がり、なんとかここまでやってきました。就学までがんばるという目標を定めていましたけど、それは単なる通過点に過ぎません。明らかに成長していく我が息子を見て、成長したなぁ、ここまできたなぁと今、しみじみと思います。これからもまだまだSに連れまわされ、Sを連れまわすことになると思いますが、日々練習!練習!です。

 ただ、これだけは言えます。ちょっと肩の力を抜いて、リラックス。なるようになるさ。ダメで七転び八起き。

今、私はそんな風に思って、子育てができるようになりました。