「私の子育て」Dくん

 改めて自分の子育てに向き合える貴重な時間を頂きまして、ありがとうございます。こうして皆さんの前で特に子供の話をするのはとても苦手なのですが、少しの間お付き合い頂けたら幸いです。よろしくお願い致します。

 2009年3月、我が家の第二子、Dが誕生しました。逆子の為帝王切開で出産しました。2370gの小さな赤ちゃんでした。お腹にいる時に名前は決めていて、覚えやすくたくさんの人に名前を呼んで欲しい、しっかり生きてほしいという願いを込めてDと名付けました。

 低体重で生まれましたが保育器に入ることなく元気に母乳もよく飲み、よく寝る子でした。3時間ごとの授乳も

泣かないのでわざわざ起こして飲ませ、また寝ての繰り返しで、、、面会に来た長女がギャーギャー泣いても起きることなく寝ていて、やっぱり第二子はずいぶんと違うな~楽だな~と思っていました。

 産後2週間は実家で過ごし、自宅に戻ってからも手がかからず購入したベビーベットが大活躍でちょっと目を離すと長女が一緒になって寝たり、ちょっかいだしたり、Dは大きい日本人形状態でした。

生後1か月、保健師さんが自宅に来てくれました。特に問題はありませんと言われましたが、改めて母子手帳を見ると指導事項に「抱いた時少し反り返り強」と書かれており、のちにあぁ自閉症あるあるだぁ~もうこの頃から特性が見えていたんだと思いました。

1歳前くらいから名前を呼んでも振り返らない、抱っこしても目が合っているというより顔のパーツを見ている感じで違和感を感じ始めました。もしや耳が聞こえないのか?と思ったけれども音の出る人形にビクッと驚いたり、ビニール袋の音に反応したりしていたんで大丈夫。でもこの違和感なんだろうとずっと思っていました。すぐに標準サイズに育ちとても重かったのですが、おんぶしてると大人しかったので家の中でも外でもよくしていました。抱っこはしづらかったようにも思います。

歩き出すようになると、今までおとなしかったのが嘘のように家中を荒らしまくりびっくりするほど豹変しました。最初は男の子だからかな~とか思っていましたが、外に出ると好き放題歩くし止まらないし手をつながないし、危ない止まって!の言葉も聞かず癇癪もひどく手に負えなくなっていきました。指さしや発語もありませんでした。

長女の3歳児検診で二人の育児にストレスを感じると正直に書くと年配のベテラン保健師さんがきて別室に連れて行かれ色々質問され、ありゃなんだか面倒なことになってしまったとちょっと後悔しましたが、話は止まらず、結果保健所のあそびの教室に通うことになりました。長女の学年のあそびの教室にDも一緒に通わせてもらいました。手遊びはおろか返事も出来ず脱走ばかりして、同年代の子と比べるとやっぱりなにか違う、なんでこんなに育てづらいのかと思っていました。そこで臨床心理士の先生におやこに通ってみませんか?と紹介していただき、第3うみべ教室りす組に入りました。Dはとにかく泣いていて、走り回ってはおもちゃを次から次に出すだけで興味はうつりやすく、ひとつの物でじっと遊ぶことができない。投げたりお友だちをたたいたりしてしまい、常に追いかけている感じでした。

ペープサートはなんとかと見ているものの、手遊びになると異常なまでの拒否反応。みんなで楽しく遊ぼうと参加しているのに、いつもギャーギャー泣きわめいて抱っこしても嫌がり何を言っても反応なし。Dの為と思っていましたが2か月目私が辛くなってきて何度もずる休みをしていました。バスハイクも参加できませんでした。みんなと同じ行動をする、みんなとバスに乗る、今のDには無理だ、私には無理と思っていたのです。だんだんとお友だちが成長していく中で我が子だけ時間が止まってしまったかのような孤独感に襲われ、何でなんだろう、何がいけないんだろう。といつも自問自答していました。発語はおいしーと言っているような、喃語のような発声で、お友だちに興味を示さず、長女とも一緒に遊ぶ事はありませんでした。何か取ってという欲求は私の手を取りクレーンで満たしていました。

3歳までに、東部療育センターで発達遅滞、中度の遅れの自閉傾向もあるため療育を行う必要ありと診断を受けました。自閉症ではないかと思っていたのでやっぱりそうかと、でもやっぱりそうなんだと重い気持ちになりました。わかっていながらも、自閉症は治らないんですか?と聞いていました。病気ではありません。障害は完全に治りません。その言葉に私は「Dは人を愛することも愛されることもないのか。」とはるか遠い未来に絶望しました。

帰宅し診断結果を主人に言い出せず、翌日の夜伝えました。主人は、ショックといった感じはなく頑張って育てていくしかない。と言いました。こんなに私は落ち込んでいるのに平然と話しているのが納得できず、前向きに頑張っていくしかないとわかっているけど余計悲しくなりました。なんでこんな気持ちなのかずっとわかりませんでした。でもつい先日、おやこ教室の記念講演会で池添先生が「悩んで落ち込んでいる人に無理に頑張って前に進もうと声をかけるより、そばで見守って一緒に落ち込んであげるほうがいい」とお話しされていて、あぁこれだ!私は一緒に落ち込んで一緒に泣いて欲しかったんだ。とわかりました。

お互いの両親にも話をしましたが、まさかうちの孫が。というような感じで、男の子は発達もゆっくりだからなどと認めてない様子でした。私の母は頻繁に手伝いにきてくれていたのでなんとなくわかっていたようでしたがかなり落ち込んでいました。

年少は第一のちゅうりっぷ組にあがり、母子分離と環境の変化が重なり毎日パニックになって相当手がかかったと思います。私はやっと自分の時間が使えだいぶ気持ちが楽になりました。教室のお母さん方とお話しする事でストレス発散でき、あの時間がなかったら今の私はいないと思います。

東部療育センターでは、心理の先生が担当で月に2回通いました。最初は部屋に入っても癇癪や自傷が激しく(頭を床にぶつける)何もできずに終わるので、慣れさせるために毎週通い5分部屋で過ごし楽しい気持ちを持たせる。だんだんと時間を長くし、4か月くらいで課題に取り組めるようになりました。しかし、椅子に座ったと思ったら立って走り高い所に昇りジャンプするといった派手な行動は相変わらずでハラハラの連続でした。もともとおっとりタイプではない私をさらにせっかちにしてくれました。家でも外でも目が離せず、怒鳴って叫んでばかりで苦しかったです。ゆっくり息を吐くことを忘れていて常に酸欠状態でした。

その頃の困った行動をまとめると、多動、聴覚・感覚過敏、でも痛みには鈍感、偏食、場所見知りで外食は特定のお店でしかできない。何でも口に入れる。洋服をところ構わず脱ぐ。集団行動、気持ちの切り替えが苦手、爪かみ、などなど上げたらきりがないくらいでした。逆にうれしいのは、夜ぐっすり寝てくれて朝は寝起きが良い事!寝起きの笑顔これは本当に幸せそうな欲のない笑顔です。あとはぐずるけどモタモタしない。行動が早い、手も足も速いので。場に合わない返事や行動で和ませてくれる。といった感じです。

その年の秋、おやこ教室の戸外活動は大島小松川公園でした。肌寒く、天気も曇っていてどんよりしていました。初めていく公園で待ち合わせの場所を間違え、遊具を前にして遊びたがるDを無理矢理連れて行こうとしましたが、全く逆方向に走り出してしまい、広い公園なのでこれはまずいと思いました。途中お友達にも会いましたが話す間もなくDが逃走。私の気持ちがポキッと折れてしまい、その時の私の体調が悪かったため(生理痛が辛い)お友達に今日は帰ると言い残し、Dの捜索へ。3歳の走るスピードとは思えないほど速くなかなか追いつけませんでした。木を伐採しているおじさんに大声ですみません、その子を捕まえてください!とお願いしていました。

なんとか確保してもらい、助かったと思ったら、涙がボトボトとこぼれて周りからは危ない親子に見られていたと思います。私のD-!と呼ぶ声にも一切振り返らず、何かに取りつかれたように走る小さな背中。いつも追いかけてばかりで後ろ姿しか覚えていないくらいです。ここで私が追いかけなかったらこのまま行方不明になるか車にひかれて死んでしまう、命を守るだけで精一杯でした。悲しみで涙いっぱいの私の隣には笑顔で木を持って振り回すD。おじさんに大丈夫かい?と言われても無言で、私は全然大丈夫じゃないよとぶつぶつ言っていました。心配された先生からの電話にも、体調が悪いので帰りますと伝えて電話を切ってしまいました。すみません。

今振り返ると、2、3歳が一番の暗黒の時代でした。どう接すれば改善されていくのか、成長していく姿が全く想像できませんでした。本当にこのままでは危険だと強く思い自閉症について調べ本を読んだし、講義を聞いたり、先生や教室のママに相談して乗り越えて行けたと思います。愛の手帳は両親にDの障害を理解してもらいたいと思い取得しました。中度の精神遅滞、広汎性発達障害 3度です。手帳が手元に届くと障害者なんだと改めて実感しました。同時に国や東京都、江東区、携わって頂ける周りの方たちに支援してもらう立場になり、Dや家族の私たちは何が出来るのかという気持ちになりました。成長できるよう努力することはもちろんの事、Dの障害について沢山の人に知ってもらうことかなと思いました。

話が前後してしまいますが、去年の4月より長女は小学1年生になり集団登校しています。慣れない1か月は登校班の場所まで一緒についてきてくださいと言われ、毎朝さらに忙しくなりました。Dを家に一人で置いておくことも出来ないので連れていき、小学生が集まる輪の中を無理矢理行ったり来たりしたり、道路に飛び出してしまったりみんなにも変わった子だという目で見られました。近所のお母さんもきているので、せっかくだから知ってもらおうと会う人に話しました。言われる前に自分から話したからかお母さん方の反応は優しく、ほっとしました。もちろん中には冷たい視線を送ってくる人もいます。この1か月は本当に長くて、知らない人にわかってもらえるよう、自分から話すのはとてもしんどかったです。以前親子教室の先生が、自分の子どもを町内の有名人にしましょう、障害を理解してもらい地域で子どもを育てていけるといいですね。とお話しして下さいました。簡単ではないですが、少しずつ実行しようと思います。

戻りますが、Dは年中児もちゅうりっぷ組でお世話になり、小集団の中で心を育てて頂きました。先生とじっくり向き合い沢山の遊びを通して色々な事に興味を持ち始めました。好きなキャラクター、好きな遊びに特にお絵描きが増えたことで、言える単語も増えてきました。集団遊びの中に入っていけなくても隅っこでみんながしているのを見ながら楽しさを共有していたり、お友達の口癖を真似してみたり、公園でも先生に追いかけて欲しいと期待する事も毎日の連絡ノートに詳しく書かれていて驚いていました。

興味が広がる事は良いのですが、困ったことも広がりました。高い所が好きで窓から下を覗く、転落しないように全ての窓に鍵をつけたり、刃物や箸類を持ちたがる為届かない所に隠す、クローゼットの物を全て出す。教室の壁紙もですが家の壁紙を剥がしたりとよくやってくれました。家が壊れると思い公園や散歩へ出かけると、Dを理解してくれているご近所さんには「今日も元気だね~パトロールごくろうさま~」などと声を掛けてもらってます。あまりの行動の激しさに東部療育センターでOT(作業療法士)の先生にもみてもらいました。Dは自分の体の感覚がわかっていないと指摘されました。ボールプールから出る時足ではなく頭から出たり、ブランコを持つ手の位置が低すぎて乗りずらいのに移動できず変な体制でいたり、転んだとき痛いリアクションが出来なく、先生と痛かった場所を抑えてイターイと練習したりしました。そんなことも教えるの?と衝撃を受けました。体を動かすのが好きなので毎回とても生き生きとして進んで出来ました。

年長児はひまわり組に変わり、部屋も広く人数も増え、朝別れると泣いてしまう事が続きました。わかっていても変化に対応できず頑張っている様子でした。先生方もあの手この手、色々考えて下さりすぐに解決しました。

年長になって一番変わったことは、母である私の気持ちです。今まで育てている私が大変と思っていました。Dが困っているとは思ってなかったのです。自分の思いや願いを伝えたくてもうまく表現できない、話したいのに話せない。そう思ったきっかけは、自閉症者東田直樹さんの本を読んでからです。全ての自閉症者がそう思っているとは限りませんが、Dもそうなのかも?と思います。

混乱してパニックになり暴れ泣きじゃくっているDが「僕は障害者になりたくてなったわけではない。誰か僕の気持ちをわかって」と言っているようでとてもつらいです。一番の理解者でありたいと思っても本当の所、Dの心はわかりません。

Dの目に映る世界は何色だろう?いつか答えが聞けたら嬉しいです。

姉弟についてですが姉は文句を言いながらもDのことをよく見てくれます。障害についてはだいぶ理解しているものの、夢を良くみるようなんですが「夢の中では普通の弟だったよ~一緒に遊べた」などと話しています。改めて長女にDのことどう思う?と聞くと、赤ちゃん、暴れん坊。障害がなければ良かった。と言っています。周りのお友達の弟とは違うとわかっていて、我慢も沢山させてしまっています。まだまだ長女も幼いのに一人で何でもやらせてしまっていて、もっと甘えさせてあげたいと思うのですがすぐ喧嘩になってなってしまって。反省します。

Dの姉としてではなく、長女は長女らしく成長できるよう、ここは頑張ろうと思います。

現在のDは、言葉だけの指示も入るようになり、パニックや拒否もありますが以前より自分の感情をコントロールできるようになりました。人の目を見る事も増えてきて反応をうかがうようなこともあります。夏には念願のオムツが取れ(排便はまだ自分から言えませんが)かぶれなくなりました。ゆめけんの親子スイミング(主人担当)に通い潜水できるようにもなりました。

最後になりますが、人間誰しも成長すると強く言いたいです。

長女とD、みんなの明日に笑顔がありますように。

ともに泣きともに笑い励ましてくれたおやこ教室の皆さん、先生方本当にありがとうございました。感謝の気持ちを少しでも伝えることができたら嬉しいです。